ペットと家畜は違うんじゃね?

教師がニワトリをひなから飼いはじめた。児童とともに懸命に世話し、親鳥になったらみんなで肉を食べましょう。命を学習する試みだ。しかし父母からの異議で、中止されたという。残酷だから。肉は店頭に並ぶ。切り身になった魚。でも、そこに生の命はない。分業時代になり、直接命を奪わなくてもタンパク質が入手できる。

いま、生活から「生き死に」の体験が消えつつある。庭にニワトリはいない。昆虫採集をする子どもも減った。命を考える機会の減少。そんな複合要素が、先の事件を生んだとはいえないだろうか。動物愛護週間。愛犬や愛鳥の精神は大事にしたい。同時に、わたしたちの命を維持してくれるのも彼らの仲間。魚の目がかわいそうと思う子どもの気持ち。でもそれは動物愛護とは違うんだよ。優しく諭す教育も、大切だ。命をいただく行為だから「いただきます」。命あっての命。その意味を、家族みんなで考えたい。
http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017200909242428.html

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1312491.html

 最近、この手の「動物をクラスで飼育して最後に食べる」っていうのを実践した話をたまに聞くけど、議論がズレてるんだよなあ。命あっての命とか、まあそれはそうなんだけど、ペットっていうのは食う為に飼ってるわけではない。たぶん児童はクラスで飼ってる動物をペットとして見てると思うし、ペットを食うことは生き死にの教育として適切ではない。ペットは愛玩するために飼ってるのであって、家畜のように最初から食うことを前提とした関係とはまた違うでしょう。ペットと飼い主というのはドライではなくもっとウェットな関係だから。酪農家の人が、自分で育てた牛を食う時と、ペットの犬を食うときとでは意識は違うでしょう。人間は食料としての家畜とペットを明確に区別している。自分のところの牛を「ペットでもあり、食料でもある」と言う酪農家は絶対に居ない。
 さて、僕自身の意見は、「命を考える機会」が本当に必要か?ということです。これほど、教師の自己満足で終わる可能性が高く、教育効果が計算できない、児童にショックを与えるものが学校でなされるべきでしょうか?