わたしはいかにして読書すれば幸せになれると教育されたか

学校の読書教育で一番ヤバイと思うのは「本を読め」とは指導するけど「本の内容を疑え」という話をしないところだと思っている。嘘・大げさ・紛らわしい・誤記・時代遅れの話が掲載されてる本なんて山のようにあるのに、いつも「本を読めば全て解決」「本の中身は正しい(特に指定図書)」という前提。

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 このpostがはてなブックマークで人気*1です、気になる話題なので、思うところを書いてみます。

わたしが受けた教育
  • 生きていくうえで情報を得ることは大事なことである。
  • 本は情報を得るのに適したツールの一つである。
  • 本は子どものころから読んでおかないと、大人になってから読み始めるのは難しい。

 小学校ではだいたいこのような教育をされました。これはけっこう正しいことを言っているのではないかと思います。

練習用の本もある、課題図書とか…

 子どものころに「読まされる」本は、ピアノの練習曲のようなものではないでしょうか、練習曲を上手に弾くこと自体にあまり意味はないけれど、簡単な曲から始めて、徐々に難しい曲へと、楽譜を読んだり、指を動かす練習を積んでおかないと、将来発表会で使うような立派な曲は演奏できないのです。

 
 インターネットなどは、あまり訓練しなくても使えますが、やはり本は訓練しなくては使えません、目先の本が面白くないからといって、ここで本嫌いになってしまっては、あなたは将来出会うはずのすてきな本との出会いを捨てたことになるのよ、と小学校の時に教育されたおぼえがあります。
 

 たしかに、著者の「美しい少年期とはこうあるべきだ」といった偏見と願望とノスタルジーを詰め込んだクソ課題図書小説、著者の偏見を無垢な小学生に塗りたくるだけのカス道徳系指定図書で本を嫌いになっていたら、ルソーにもカントにも出会えなかったでしょう。

 
 ちなみに、イチローは中学校までは学年で10番以内に入るくらい勉強もしていたそうです、それはプロ野球選手になったらマスコミ対応など、いやなこと、無意味なこと、できるならやりたくないことをしなければならないから、やりたくないことをできるようになるための訓練だと割り切っていたらしいです。すげー。


 まぁ、わたしとしては、目先の本がつまらなかったら、好きな本を読んでいればいいと思いますが… 別に最初は好きな小説だけでもいいと思います、大量の活字を読めるようになるだけ読まないよりマシだからです。

内容を疑う以前の話

 家庭教師や塾講師のバイトをしていて思うのですが、国語でも英語でも、長文を見た瞬間あきらめる人、最後まで読む力がない人がいます。40代の先輩塾講師に雑談でこのことを話してみると、現代文の偏差値が50以下の人はそもそも文章を集中して読む力がない、と言っていました。偏差値50以下といえば全生徒の半分になるので、先輩の言うことが本当ならやはり内容を疑う以前のレベルの人のほうがはるかに多いことになります。

常識や慣習を疑うということ

 そもそも、常識や慣習を疑える人間は、ものすごく優秀です、いや、優秀でなければなりません、みんながみんな、常識や慣習を疑い出したらたいへんなことになります、みんなが集合流を無視して動くわけですから、学級崩壊が起きます。
 

 やはり、常識や慣習を疑うことには、自分で気づいたほうがいいのではないでしょうか、インターネットに、実はマスコミは嘘ばっかり流しているよと知らされた小学生中学生がどうなっているかを考えてみればわかります、人生で初めて出会う(常識から見て)悪の教師が生身の人間だった場合はまだましです、その人に失望することで一歩大人になれるからです、しかし初めての悪の教師が2ちゃんねるだったらどうしようもありません、せいぜい煽り耐性がつくくらいです。


 また、もしも「本の中身を疑え」という教育をやるとしたら、「本は正しい」という教育を行った後にやるべきだと思います、それまでで自力で「中身を疑う」ことに気付いていた子は、わが意を得たりと非常に印象に残るでしょうし、それまで無批判に本を信じていた子も、ショックを受けてやはり印象に残ると思うからです。

メディアリテラシー

 今の生徒には、いちおう、情報の授業で、報道などを批判的にとらえるメディアリテラシーの有用性についてはアナウンスされているはずです。その意味では、本を疑えという教育はすでにされているともいえます。